どうも皆さん、こんにちは!
fishmanです。
本日は【父の日】ということで、自分の父について書いて行きたいと思います。
そんな大した話ではないですが、よかったら最後まで読んでくださいね!笑
父の日とは
「父の日の由来や起源を辿っていくと、時は1909年にまで遡るそうです。当時のアメリカ、ワシントン州のスポーケンで、母親を亡くしながらも6人の子どもたちを懸命に育てたお父さんを讃え、母の日はあるのに父の日がないのはおかしい、父親に感謝する日もあった方がいいという声があがり、当時の牧師協会に嘆願があったのがきっかけになって生まれたものだと言われています。
こうして最初の父の日の祝典は翌年の1910年に行われ、それから56年後の1966年に、当時のアメリカの第36代大統領、リンドン・ジョンソンが6月の第3日曜日を父の日と定めたのだそうです。その後、アメリカにおいて正式に国の記念日となったのは1972年の事だったそうですが、父の日がきちんと定まってからはまだ40年ほどしか経っておらず、意外に新しい記念日なのです。
僕は、てっきりどこかの会社が考えた商業戦略の一つかと思ってました。
バレンタインデーとホワイトデーのように。。。。
しっかりと由来があったとは。。。。
そんな、父との思い出について書いて行きたいと思います。
僕の父親はただのクソヤロウだった。
うちの父親は、よくいるクソヤロウでしたね。
正直うちの家は、貧乏でした。
貧乏なのに、父親はお酒ばっかり飲んでました。
そして、母もそんな父親と毎日ケンカをしておりました。。。
・・・・ここまでドラマのような展開。
ただ、父親は朝早く家を出ていき、よる遅く帰ってくる生活をずーっとこなしてました。(で、家に帰ってきたらお酒を飲んでいる生活)
家の中を皿が飛んでいるのに遭遇したこともあります。
正直、父親が嫌いでしたね。このときは。
大学受験の失敗と会計士試験の挑戦
子供の頃って、正直自分の家が漠然と貧乏であるとしか思ってなかったわけですよ。
でも当然に部活もやってましたし、塾にも通わせてもらったわけですよ。
子供なんで、望めば何でもやらせてもらえる!って思った部分はありましたね。
ふざけてましたね。このときは。笑
その都度うちの親たちは色々我慢をしていたと思います。
そんなドラ息子であった僕は、大学受験に失敗し浪人するわけです。
ただ、うちの親は怒らずに、自分のやりたいようにやりなさいと言ってくれました。
その中で僕はバイトをしながら予備校には通わずに自分の自習をする道を選びました。
絶対に浪人時代は落ちることは許されなかったので、必死で勉強しました。
第一志望の大学に見事合格することができました。
そして、苦労していた親のためにも、なんとか良い職業に尽きたいと思い、会計士試験に挑戦することにしました。
この会計士試験代は、奨学金を多めに借りていたこともあり、その資金から予備校に通いました。もちろん、バイトもしてました。
毎日、周りが遊んでいるのを横目にがんばっていたハングリーな学生時代を思い出すと懐かしくなります。
あの頃の目つきはヤバかったと思います。笑
そして、見事合格すると、親は泣くほど喜んでくれました。
一つ親孝行ができたかなと思います。
僕が働きはじめて父親が大病に
働き初めて、2~3年くらいだったかな。
父親が癌になりました。
正直、目の前がまっくらになりました。
ステージは2~3の間でしたので、手術をすれば大丈夫だそうな。
ただ、父も人間なので、少し落ち込んでいました。
で、そんな父親を励まそうと思いある一つのことを思いつきました。
そうです。
父親とサシ飲みしようと
(もちろん、僕が全額おごりで。笑)
僕はそんなにお酒は強いほうではないですが、色々飲みながら話しましたね。
父親も息子と飲むのが夢だったみたいで、うれしそうでした。
手術も無事成功しました。
最近の診断で、がんが完全に消えたと診断されたみたいです。
よかった。よかった。
しぶとく、元気にいきてほしいものです。笑
社会人になって思うこと
本当に、父は偉大だなと痛感します。もちろん、母も偉大ですよ。
父の時代は、パワハラという言葉がないとは思いますが、毎日がパワハラのような生活だったと思います。
職場で、恫喝、暴言、暴力は当たり前だったように思います。
そんな生活に耐えて僕を育ててくれました。
一方、僕は逃げてばかりいます。笑
そんな父のようになれるように、僕もがんばっていきたいなと思います。
親に恩返しをしないといけないですね。
また、一緒に酒でも飲んでやるかな。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございます!
はてなブロガーの方は読者登録とスター評価お願いします!
Twitterご利用の方は、フォローといいね!お願いします!